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どこまで人の目を気にしないで生きられるか?

人の目を気にしているからこそ向上している部分はあるけれど・・・

トランプ大統領就任演説・同じ和訳でも・・・

ドナルド・トランプが正式にアメリカ大統領に就任。

その就任式でのスピーチが様々な媒体で日本語に訳されている。

 

おおまかなイメージというか、トランプが何を言っているのかが分かればいいので、

訳者による多少の違いというのは気にならない。

ただ、できれば、それぞれの英語の原文とその日本語の意味を見比べながら読み進められるような和訳(対訳)があるといいものだが、案外、そういうものが少なかったりする。

※多くは、日本語訳がはじめから終りまで載っていて、次に原文の英語がはじめから終わりまで載っている。

 

その点、↓↓↓の対訳(英語と日本語が交互に載っている)はありがたい。

トランプ就任演説(英語と日本語対訳)

 

 

「五郎丸ポーズ」にみる「人目論」

ラグビー日本代表のポイントゲッター五郎丸歩選手の、

ボールを蹴る前にする「祈りポーズ」が話題になっている。

 

これはスポーツ選手がやる「ルーティン」というやつで、

儀式みたいなもの。

なぜこんな意味のなさそうなことをやるかというと、

「いつもやっていること」を「プレッシャーのかかる場面でもやる」

ことで、「平常心を保つことができる」

という、心理学的な根拠があるからだという。

 

だから、ある意味、人目を気にしているような人は、

こういうことは真似しないほうがいいのかもしれない。

 

五郎丸選手の場合、

この「祈りポーズ」があまりにもユニークなため、

今後も様々な場面で取り上げられることになるだろうが、

今回のワールドカップでこれまでとは比べ物にならないくらい注目されることになって、

「祈りポーズ」がかえって、雑念を生じさせることにならないか?

(多分、そういうことはないと思われるが)

「人目」というものが、ここぞという時の集中力を高めることにもなるし、

削ぐことにもなる・・・

そんなことを、

「五郎丸ポーズとその注目度」が考えさせてくれた。

ラグビーワールドカップのテレビ放送予定はココが分かりやすい

「あきらめないこと」はカッコイイか悪いか?

「あきらめないことの大切さ」が広く言われているのとは反対に、

実生活の中では、「あきらめろ、あきらめろ」としきりに「あきらめること」を促す人で溢れているのもまた現実。

果たして、どちらのスタンスがより幸せに近づくことができるのか?

あきらめることを促す人

あきらめることを促す人というのは、基本、人間的な魅力はない。

あくまで、「人間的な魅力」という点からのみ言えば、少なくともそういうことにはなるはずだ。

彼らはなぜ、他人に「あきらめること」を促すのか?

他人にそれを促すくらいだから、当然、自分も「すぐにあきらめる」型の人間であることは確かだろう。

おそらくは、彼らも「あきらめないことの大切さ」ということを何度も聞き、学んできてはいるはずだ。

そして、「あきらめないこと」を自分なりに実践した経験もあるのだろう。

ただ、そのことで「いい思い」をした経験がなく、次第に、「あきらめたほうが楽」という哲学が身についてしまったものと思われる。

あきらめないことは格好が悪い?

「あきらめが悪い」というのは、「未練がましい」とか、「粘着質」といった言葉で表現されることもあり、また、そういう言われ方をされること自体が苦痛にもなるもので、人目を気にする人ほどあきらめるのが早いということもいえそうだ。

そして、自分自身、「あきらめが早い」人が、今度は他人に「あきらめること」を促すものと思われる。

あきらめることを促すことのメリットは?

目の前の人に「あきらめること」を促すことで、その人が得られるメリットは何か?

にわかには「何もない」ということになりそうだが、要するに、「個人的精神的満足感」といった、およそ社会的には何の価値のないメリットをこの人は享受することができるものと思われる。

いわば、「俺だってすぐにあきらめるんだから、オマエもあきらめろ」というわけで、目の前の人に自分と同じことをしてもらうことで自分を肯定しようとする人である。

 人は自分を映す鏡

何事においても「あきらめないこと」が成功するための重要な要素であることは、多くの成功者が語っていることから真実であろうと思われる。

また、「成功者」と言われずとも、「あきらめないこと」で何かを成し遂げた経験のある人からみれば、「あきらめない人」は「カッコイイ人」または、「賛同すべき人」ということになるはずだ。

逆に、「あきらめないこと」で何も成し遂げた経験がない人からすれば、目の前にいる「あきらめない人」に何かを成し遂げられてしまっては、自分だけが「ダメな人間」になってしまうので、そうならないためには、何としてでも「あきらめさせよう」と試みるものだと思われる。

 

パチンコホールに入る瞬間、罪悪感を覚える?

昔、駅前のバス停でバスを待っていた時に、そのまん前にあるパチンコホール(パチンコ屋)から汚いオヤジが出てきて、パチンコホールの壁に向かって立ちションしていたことがあった。

その記憶が鮮明にあるために、以後、パチンコに対しておよそいいイメージがない。

そうでなくたって、パチンコというのは、「そのお金がどこに流れているのか?」

を真面目に考えれば考えるほど、

「う~ん・・・」

とならざるをえない。

ところが、パチンコというのは、一度ハマると抜け出せなくなるような中毒性を持っているもののようで、自分が一度その世界に足を踏み入れると、もはや「他人の目」などは関係なくなるもののようだ。

パチンコをやらない人間にとっては、パチンコにはある種の良からぬイメージがあるだけで、自分に近い人がパチンコホールに入っていく姿を見ただけで溜息が出るだけであるが・・・

そんなわけで、パチンコ好きが「パチンコをやるかやらないか?」「やめるかやめないか?」という問いを自分に投げかけることはあまりなく、必然的に「パチンコホールに入るべきか否か?」という問題意識が湧き上がってくることもないと思われる。

そんな中、つい最近、電車に乗っていたら、隣に座っている人がパチンコアプリで遊んでいることがあった。

ミリオンゴッド凱旋というパチスロのアプリのようだ。

スマホでゲームをやるにしろ、電子書籍を読むにしろ、電車に乗っている最中には、ある程度「人の目」を気にするものだが、アプリでパチンコ(パチスロ)を打つくらいだったら、パチンコ好きでなくても「入って行ける」かもしれない・・・とその時ふと思った・・・

ガラケー(スマホ)からスマホ(ガラケー)に切り替えるという判断

ここ2、3年の間に、爆発的に普及したスマホ

この過程で、ガラケーからスマホに切り替えたのはいいとして、

その理由が、「スマホにする必要性を感じて」スマホに切り替えたという人はどのくらいいるのだろうか?

 

「みんながスマホにしているから」という理由で「とりあえず自分もスマホにしとこう」という判断は、あながち間違ってはいないだろうが、

その理由の中には、

「みんながスマホにしているのに、自分だけガラケーではみっともない」という、「他人の目の強迫」という要素が少なからずあるのではないだろうか?

 

・・・で、実際にスマホにしてみて、「それで良かった・・・」という場合はいいとして、「やっぱりガラケーのほうが良かった」という人が、一定数存在するのも現状。

2014年(平成26年)のガラケー出荷台数が、前年比5.7%増というデータもある。

(参考:「ガラケー」が復活する? 出荷数7年ぶり増の「理由」

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1502/26/news049.html

 

・・・とこうなると、今度は、

スマホからガラケーに戻すか?

という問題に直面している人が、どういう判断をするか・・・ということになる。

 

この時、本当はガラケーに戻したいのに、そこに踏み切れない人は、「電車の中で、自分だけガラケーだったらカッコ悪そう」という「他人の目」を気にしている可能性がある。

 

逆に、「ガラケー出荷台数が伸びている」という上述のようなデータが周知されることになり、「ガラケーでもダサくないかも・・・」ということで、意気揚々とガラケー回帰する人が増えたとしても不思議ではない。

 

親戚がみんな有名大学・有名企業・・・の場合

1年に1度、正月に親戚同士の集まりがある。

そこで、○○ちゃんはどこの大学に入った、△△さんはどこの会社に就職した~

と言って、「よかった、よかった・・・」という話になる。

 

そんな「親戚環境」の中、自分は大学には行かないとか、行ったとしても偏差値の低い大学に行くことになった・・・という場合、果たして「よかった、よかった・・・」となるか?

 

多分、ならない・・・

 

でも、自分のことは、年に1度しか会わない親戚よりも、この自分の方がよっぽどよく分かっている。

自分が得意なものが何で、何をすると周りの人から評価されやすいのかも分かっている。

その道に進んでいくためには、有名大学なんて行って、有名企業になんて就職している暇はない。

 

よく、

「とりあえずは(有名)大学に行っていれば・・・」とか、

「大企業に就職するチャンスがあるなら、とりあえず大企業に・・・」

なんて具合に、大学信仰、大企業信仰というのが根強くある。

 

ただ、それが全ての人に当てはまるわけではないし、

大学はまだしも、大企業なんてところには、およそ適応できないタイプの人間もいるわけで、

自分がその「適応できない系」の人間の場合、20代前半という成長期を完全に無駄に過ごすことになり、挙句、「やっぱり、自分にあった道に進もう」と思っても、とてつもない「遅れ」の下でのスタートになるかもしれない。

それどころか、道によっては、「手遅れ」ということで、にっちもさっちも行かないことになる・・・

 

本来は、親が「とりあえず大学」「チャンスだから大企業」という方向に子を誘導しなければ良かったのだろうが、

「ウチの子は大学には行かない」とか、「有名企業になんて就職しない」というスタンスが取れない理由の一つが、「親戚の目」にあったるするのではないだろうか?