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どこまで人の目を気にしないで生きられるか?

人の目を気にしているからこそ向上している部分はあるけれど・・・

「あきらめないこと」はカッコイイか悪いか?

「あきらめないことの大切さ」が広く言われているのとは反対に、

実生活の中では、「あきらめろ、あきらめろ」としきりに「あきらめること」を促す人で溢れているのもまた現実。

果たして、どちらのスタンスがより幸せに近づくことができるのか?

あきらめることを促す人

あきらめることを促す人というのは、基本、人間的な魅力はない。

あくまで、「人間的な魅力」という点からのみ言えば、少なくともそういうことにはなるはずだ。

彼らはなぜ、他人に「あきらめること」を促すのか?

他人にそれを促すくらいだから、当然、自分も「すぐにあきらめる」型の人間であることは確かだろう。

おそらくは、彼らも「あきらめないことの大切さ」ということを何度も聞き、学んできてはいるはずだ。

そして、「あきらめないこと」を自分なりに実践した経験もあるのだろう。

ただ、そのことで「いい思い」をした経験がなく、次第に、「あきらめたほうが楽」という哲学が身についてしまったものと思われる。

あきらめないことは格好が悪い?

「あきらめが悪い」というのは、「未練がましい」とか、「粘着質」といった言葉で表現されることもあり、また、そういう言われ方をされること自体が苦痛にもなるもので、人目を気にする人ほどあきらめるのが早いということもいえそうだ。

そして、自分自身、「あきらめが早い」人が、今度は他人に「あきらめること」を促すものと思われる。

あきらめることを促すことのメリットは?

目の前の人に「あきらめること」を促すことで、その人が得られるメリットは何か?

にわかには「何もない」ということになりそうだが、要するに、「個人的精神的満足感」といった、およそ社会的には何の価値のないメリットをこの人は享受することができるものと思われる。

いわば、「俺だってすぐにあきらめるんだから、オマエもあきらめろ」というわけで、目の前の人に自分と同じことをしてもらうことで自分を肯定しようとする人である。

 人は自分を映す鏡

何事においても「あきらめないこと」が成功するための重要な要素であることは、多くの成功者が語っていることから真実であろうと思われる。

また、「成功者」と言われずとも、「あきらめないこと」で何かを成し遂げた経験のある人からみれば、「あきらめない人」は「カッコイイ人」または、「賛同すべき人」ということになるはずだ。

逆に、「あきらめないこと」で何も成し遂げた経験がない人からすれば、目の前にいる「あきらめない人」に何かを成し遂げられてしまっては、自分だけが「ダメな人間」になってしまうので、そうならないためには、何としてでも「あきらめさせよう」と試みるものだと思われる。